作業療法士/
児童発達支援管理責任者
奥川 純子(おくがわ すみこ)

経歴
| 1971年 | 兵庫県生まれ |
| 1999年 | 国立療養所東京病院附属リハビリテーション学院 作業療法学科卒業 作業療法士資格取得 |
| 2001年~ | 横浜市の療育センターに勤務(約14年間) 重症心身障害児・発達障害児の療育に携わる |
| 2015年~ | 児童発達支援・保育所等訪問支援事業所・放課後等デイサービスに勤務 学校での作業療法の可能性を模索し始める |
| 2022年 | 武庫川女子大学大学院 臨床教育学研究科 修士課程修了 |
| 2022年~ | 訪問看護ステーションで不登校児・発達障害児への 訪問リハビリテーションに従事 |
| 2024年 | YUIMAWARU株式会社に入社 |
奥川純子について

私は作業療法士として、子どもたちが「自分の人生を自分で選んでいる」と実感できるような支援を大切にしています。
私が目指すのは、主役である本人の後ろに控える「黒子(くろこ)」のような存在です。支援者がいなくなった後も、その子が自分の足で歩んでいけること。そのために、「自分で選んでいける」支援を大切にしています。
自分の輪郭がなかった、
ぼんやりとした幼少期
幼い頃の私は、自分の意見が特になく、どこかふわふわと浮いているような「ぼーっとした子」でした。自分というものの輪郭がとても曖昧で、周りが動いているのに自分だけ動いていないような感覚です。
隣の子に足を青たんができるほどつねられても「やめて」と言えない。トイレに行きたいと言い出せずにおもらしをする。我慢しすぎて膀胱炎になる。そんな、自分の感覚に気づきにくい子どもでした。
こだわりも執着もない。好きなものも特にない。自分を取り巻く世界と、自分自身が、どこか隔てられているような感じ。それが幼い頃の私でした。
ドバイで見つけた、自分の輪郭
転機は、父の仕事の関係で過ごしたドバイでの生活でした。
小学校3、4年生の頃、父の建設機械の会社の海外転勤で、まだ誰もドバイを知らないような時代のドバイへ。当時のドバイは高級リゾート地ではなく、日本の建設機械が土埃をあげて動き回っている、まさに開発の最前線でした。
日本人学校は全学年あわせて50人ほどの小さいコミュニティでした。授業の発表でも順番がすぐに回ってくるから、否応なしに発言を求められる。自分は何も変わっていないのに、環境が変わっただけで、自分の出し方が変わる。
そこで初めて、「自分はここにいる」という感覚が少しずつ芽生えていきました。
この「環境が変われば、人の見え方も、自分の出方も変わる」という体験が、今の私の支援の根底にある「その人の中にあるものが生かされる環境を見つける」という発想につながっています。
中学時代の「1年間の沈黙」と
塾という居場所
ドバイから帰国後、父の再赴任と受験の時期が重なり、私は母方の親戚の家に預けられることになりました。
そんな転校先の中学で、いじめを経験します。昨日まで笑い合っていた友人が、ある日を境に挨拶すら返してくれなくなる。理由もはっきりしない、理不尽な断絶。私は学校で誰とも口をきかずに過ごすようになりました。
教室では石のように黙り込み、ただ時間が過ぎるのを待つ。身近に味方と呼べる大人もいない。親戚の家に預けられている身では、不登校になるという選択肢すら持てませんでした。
けれど、私を社会と繋ぎ止めてくれた場所がありました。当時通っていた学習塾です。
学校でも家でもない、利害関係のない第三の場所。そこには同じ目標を持つ仲間がいて、自分が尊重されている、受け入れられているという感覚がありました。いじめのことは誰にも言わなかったけれど、塾で交わす何気ない日常の会話が、凍りついていた私の心をどれだけ救ってくれたか。
今の私が、学校以外の「居場所」を大切に思うのは、あの時、塾という小さな居場所が私の支えになってくれたからです。当時の塾の友人たちとは今でも交流があります。
OLから専門職へ
短大を卒業し、一度は一般企業のOLとして社会に出ました。
平穏な毎日でした。大きな不満があったわけでもありません。ただ、3年ほど働いた頃、心のどこかに小さな違和感がありました。
「このまま続けていくのだろうか」
強い動機があったわけではありません。けれど、もう少し自分の中にあるものを確かめてみたい、そんな気持ちがじわじわと広がっていきました。
その流れの中で、資格取得という選択肢が浮かび、作業療法士の道を考えるようになりました。
1996年、国立療養所東京病院附属リハビリテーション学院へ入学。
この学校は、日本の作業療法教育の礎を支えてきた場のひとつです。
当時の私は、「作業療法士になりたい」という明確な志があったというよりも、まずは専門性を持つこと、その世界に入ってみることを選んだ、という感覚に近かったように思います。
作業療法が自分にとってどんな意味を持つのかは、まだこの時点でははっきりしていませんでした。
横浜での10年間
—積み上げた臨床で得た「見立て」

1999年作業療法士資格取得後、横浜市の職員として脳血管医療センターに配属されました。
本当は子どもの施設に行きたかったのですが、ちょうど市の施設が民営化されていく時期と重なり、叶いませんでした。
しかし、この1年間で脳血管障害の方を支援する基礎を叩き込まれたことが、後の子どもたちの支援において大きな土台となりました。身体機能だけでなく、脳機能の評価についても学びました。
当時はその価値がわからなかったけれど、振り返ってみれば、ちゃんと積み上がっている。点と点がつながるとは、こういうことなのだと思います。
その後、横浜市の医療療育センターで10年間、神経発達症の子どもたちの直接的なリハビリに従事しました。協調運動の練習、操作の練習、さまざまな検査——。たくさんの子どもたちとご家族に向き合い続けた日々が、私の支援を支える大きな力になっていきます。
それが、「見立て」の力です。
学校で初めて会った子どもが、どこで困っているのか。身体の使い方の癖、目の動き、姿勢のとり方——言葉にならないSOSを身体から瞬時に読み解く力。
「この子がじっと座れないのは、集中力がないからではなく、身体のバランスを保つのに必死だからではないか」。
脳機能と身体機能の両方を踏まえた視点が、この10年間で積み上げ続けてきた臨床経験と結びつき、今の私の土台となっています。
個別の変化を、学校や日常へつなげたい

横浜から地元の神戸に戻った後、民間の放課後等デイサービスで個別支援を続けました。横浜の療育センターで行っていたような40分のセッションの中で、子どもの行動や運動機能に変化が生まれるのは自然なことでした。けれど、その変化が、そのまま学校という日常の中で活きるかというと、それはまた別の話でした。
保育所等訪問支援で学校に入り始めた頃は、「専門家が来て、学校のやり方に文句を言われる」と感じられてしまう雰囲気がありました。だから私は、先生がやっていることを分析して改善点を示すのではなく、「ここが良かった」と感じた点を丁寧に言葉にしてお伝えする関わりを続けてきました。
それでもやはり、もっと学校の内側から関わりたい。その思いが、2020年の大学院進学へとつながっていきます。
大学院での「壁打ち」
—自分のフィルターに気づく

学校の先生方を理解するために臨床教育学を選び、その視点の中に身を置いてみたいと思ったからです。
大学院で待っていたのは、徹底的な問いでした。
「なぜそう思ったのか」
「何を根拠にそう言うのか」
「違う見方はないか」
「こちらから見たらどうか、あちらから見たらどうか」
問いを重ねていく中で、自分がどんなフィルターを通して物事を見ているのかが浮かび上がってきました。
当たり前だと思っていた前提や、無意識の価値観が、問いの中であらわになります。
物事は一つの見方に固定されるものではなく、関係性や立場によって揺れ動いていくもの。その揺らぎを抱えたまま考え続けること。
この姿勢が、今の私の支援の土台になっています。
息子の
「俺の考えを乗っ取らないでくれ」
私が支援の中でいちばん大切にしていることは、自分の息子から授かった言葉にあります。
高校生の頃、進路の話をしていたときのこと。息子がぽつりと言いました。
「ママちょっと黙ってて。俺の考えを乗っ取らないでくれ。」
その言葉が、心に深く残りました。良かれと思って先回りし、考えを整理してあげているつもりが、実は相手が自分自身と向き合う時間を奪ってしまっていたのです。
支援の場面でも同じことが起こり得ます。「こちらのほうがいい」と思う答えが見えてしまうと、つい手を出したくなる。でも、支援者の考えが前に出た瞬間、「奥川さんが言ったからこうした」になってしまう。自分で選んだという感覚が薄れてしまいます。
だから私は、「どう思いますか」と聞かれたとき、すぐに答えを渡すのではなく、その人が大切にしているものを一緒に確かめるようにしています。整理や言語化は手伝うけれど、選ぶのはあくまでその人自身。
それが、私が支援の中で大切にしている姿勢です。
不登校は「脱落」ではなく
「必要な時間」
「学校に行けなくなった」と聞いた時、周囲は「脱落した」「流れから外れた」と感じがちです。
でも私は、それをその子にとって必要な時間なのだと感じています。
集団の中で我慢してきたものが、ようやく表に出てきたのかもしれない。立ち止まることでしか見えないものがあるのかもしれない。
それは「遅れ」ではなく、その子に必要な整理の時間。
そう思えるからこそ、焦らず、その子の歩幅で伴走したいと考えています。
中学生の支援
—自分を確かめる嵐の中で

中学生は、自分自身を確かめる時期なのだと思います。
歯医者さんで麻酔をかけられたとき、ついほっぺたを触ってしまうように、自分の輪郭が曖昧なとき、人は何かに触れて自分を確かめようとする。それが人に向かったとき、いじめや悪口、仲間外れという形になることもあるのだと思います。
いじめは決して肯定できるものではありません。
けれど、自分を探している途中で、未熟なままぶつかり合ってしまうことがあるのも事実です。私自身がいじめられた経験があるからこそ、今はその側面も含めて捉えています。
だからこそ、その時間をどう見守るか。
周囲の大人がどう支えるかが、とても大切になります。
この時期に揺れ動くのは、子どもだけではありません。親もまた、不安の中にいます。守りたい気持ちが強くなるほど、関わりは深くなります。けれど、子どもが自分の輪郭を確かめる機会まで奪ってしまうと、本来通り抜けていくはずの過程を止めてしまうことにもなります。
発達に特性のある子どもの場合、なおさら関わりは濃くなります。それでも、子どもが自分の人生を歩んでいくためには、どこかで「信じて手放す」という過程が必要になります。簡単なことではありませんが、避けては通れない時間です。
私は、不安で揺れ動く親御さんの気持ちを受け止め、適切な距離感での伴走を心がけています。
子どもの中にある揺らぎを削るのではなく、支えながら通り抜けていくこと。
それが、私の支援の根っこにあります。
個性と輪郭が際立つチームで

私は、「こうなりたい」という強い執着をあえて持たないようにしています。
振り返ってみれば、OLから作業療法士へ、脳血管医療センターから療育の現場へ、横浜から地元へ、そしてゆいまわるへ——。自分で強く選び取ったというよりも、その時々に流れてきたご縁やきっかけに、少し勇気を出して乗ってきた結果が、今につながっています。
今、ゆいまわるでの日々は、とても実りの多い時間です。
個性のはっきりした仲間たちと働く中で、自分の輪郭もまた浮かび上がってくる。際立つ人たちの流れに乗りたい自分もいれば、流されすぎないでいたい自分もいる。その間で揺れながら、たくさんの気づきや壁打ちを重ねています。
その心地よい緊張感が、私の「黒子」としての立ち位置を、よりくっきりさせてくれています。
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