YUIMAWARU株式会社
代表取締役/作業療法士
仲間 知穂(なかま ちほ)

経歴
| 1979年 | 東京都生まれ |
| 2002年 | 東京都立保健科学大学(現:東京都立大学)作業療法学科 卒業 |
| 2002年〜 | 河北リハビリテーション病院(回復期リハビリテーション)に勤務 |
| 2005年 | 沖縄に移住。沖縄リハビリテーション病院に勤務 |
| 2008年〜2015年 | 琉球リハビリテーション学院 講師(7年間) |
| 2009年 | ボランティアとして学校での作業療法を開始 |
| 2015年9月 | 琉球リハビリテーション学院を退職 |
| 2016年1月 | NPO法人 こども相談支援センターゆいまわる 設立 |
| 2018年 | YUIMAWARU株式会社に法人変更。代表取締役就任 |
行政・教育機関との連携
こども家庭庁 令和7年度 子ども・子育て支援等推進調査研究事業
「インクルージョン推進におけるアウトリーチ支援の実態把握及び質に関する調査研究」検討委員会 委員
鎌倉市教育委員会
インクルーシブ教育推進に関する専門的助言、講師、意見交換(令和8年度)
横須賀市教育委員会と連携し、小中一貫教育の文脈における学校作業療法モデルの構築を協議。
市立中学校・小学校を対象とした実践および次年度モデル事業の準備を進めています。
国立特別支援教育総合研究所(NISE)専門研修(通常学級)にて
発達障害・情緒障害・言語 障害の支援に関する講義を担当
琉球大学と産学官協働でインクルーシブ教育推進の人材育成に尽力
研修・講演実績
国立特別支援教育総合研究所や大阪府・鎌倉市など各地の教育委員会、東北福祉大学・東京家政大学など複数の大学、
さらに全国各地の作業療法学会でも講演。
地域を越えて信頼される専門家として、年間を通じ各所から50件以上の登壇依頼を受けています。
直近の講演実績はこちらのページをご覧ください。
著書

『学校に作業療法を』
(クリエイツかもがわ)

『「届けたい教育」をみんなに』
(クリエイツかもがわ)

『学校作業療法ガイドブック』
(共著:友利幸之介 青海社)
論文・寄稿
学術誌・専門誌への論文・寄稿 20本以上(クリックで展開します)
| タイトル | 掲載誌 | 年 |
|---|---|---|
| 小児リハビリテーション(学校作業療法)と遊び・学び — インクルージョンの実践 | J. of Clinical Rehabilitation 34巻13号 | 2025 |
| 吉川ひろみ 編「作業療法をはじめよう 第2版」(書評) | 総合リハビリテーション 53巻3号 | 2025 |
| 巻頭インタビュー「届けたい教育」で家庭・学校・地域をつなぐ | 学校事務 74巻11号 | 2023 |
| 特別講演 子どもと社会のつながりを作るためのOTの役割:学校作業療法 | 鳥取県作業療法学会誌 第17号 | 2021 |
| 目標設定のエビデンス・第4回 発達障害領域の目標設定(共著) | 作業療法ジャーナル 55巻9号 | 2021 |
| 学校作業療法の実践 | 作業療法の実践と科学 3巻4号 | 2021 |
| 「学校作業療法」特集号に5本寄稿(学校作業療法に必要な技術とは/教員との作業療法面接/登校不安と学校作業療法/まちのOTとしての学校作業療法/対人交流と学校作業療法) | 臨床作業療法nova 18巻3号 | 2021 |
| “届けたい教育”でつなぐ学校と家庭と地域 | そだちの科学 第34号 | 2020 |
| 学校作業療法における目標設定 | 臨床作業療法nova 17巻2号 | 2020 |
| 学校に作業療法を — 沖縄県・学校作業療法の取り組み(提言) | 作業療法ジャーナル 53巻7号 | 2019 |
| 自著を語る BOOK「学校に作業療法を」 | 週刊教育資料 第1517号 | 2019 |
| 保育所等訪問支援における巡回型学校作業療法(共著) | 作業療法 37巻4号 | 2018 |
| 保育に焦点を当てた作業療法コンサルテーションの効果を明らかにするためのパイロット研究(共著) | 医療の広場 56号 | 2016 |
| 特別支援教育における教員との協働的作業療法の実践(共著) | 作業療法 32巻1号 | 2013 |
| 幼児の作業の可能化を目指す幼稚園教員との協働的アプローチ(共著) | 作業科学研究 5巻1号 | 2011 |
| 特別な支援を必要とする幼児のニーズに合った受容的な保育活動・集団づくりの創造(共著) | 沖縄県作業療法研究 第5号 | 2011 |
| AMPSの結果の共有により具体的な支援を行っていけるようになった教員 | AMPS事例集 | 2011 |
仲間 知穂について

作業療法士として、三児の母として。 学校に作業療法を届ける活動を沖縄から始めた、ゆいまわるの創業者の仲間が、どんな道を歩み、ゆいまわる創設に至ったかをお伝えします。
なぜ病院ではなく、学校だったのか。 作業療法士としてのキャリアも、母親としての経験も、すべてが「学校」という場所につながっていきました。
病院時代の反骨と挫折
私が作業療法士になった頃、「作業療法士って何をする人?」という問いに、作業療法士自身が答えられない時代でした。
理学療法士が体を診る。言語聴覚士が言葉と思考を診る。じゃあ作業療法士は?──実態は、理学療法士の「助手」のような扱い。患者さんは理学療法士が先に担当し、残りの部分を私たちが引き受ける。そんな空気が当たり前でした。
私はそんな空気感がすごく嫌だったんです。だから、理学療法士以上に勉強してやろうと思いました。筋肉のこと、脳の情報処理のこと、夜中まで病院に残って勉強し、技術を磨き続けました。3年目には「自分の患者になってよかったね」と思えるくらいになっていて、今思えば変な自信がついていた時期ですね。
その当時の全力を注ぎ込んだ患者さんがいました。脳卒中で体が思うように動かなくなった方です。夜中まで病院に通い、看護師さんに許可をもらって、とにかく体を良くすることだけに集中しました。3か月後、退院にこぎつけた時には、やれることは尽くしたと満足すら感じていました。
退院後の外来で、その方にこう言われました。
「私から母親を奪うの?」
中学生と高校生の息子がいる。でもヘルパーがいないと動けない。夕食もつくれない。
あの方は、本当に怒っていました。「何してるのあんた」と。
3年間の勉強の全てが、たった一言で崩れ落ちました。
私はこの人の体を「直した」つもりでいた。でも、この人が母親であることを、私は一度も見ていなかった。病院にいる間、全員が「病人」にしか見えなかった。でもこの人は、家に帰ったら母親の顔になっていた。入院中のあの人はなぜ「病人」でしかなかったのか。その疑問が、頭から離れなくなりました。
それから手当たり次第でした。
患者さん全員を私服にしてみたらその人らしさが出るんじゃないか。「私服プロジェクト」と名づけて始めたら、看護師さんに「セーターを着替えさせるのがどれだけ大変か分かってるの」と怒られました。
じゃあ家に帰してしまえ。「外泊プロジェクト」として、入院中の方に一時帰宅してもらい、家での表情を見せてもらう試みも始めました。根拠はありません。でも、あの一言の違和感を打ち破るために、やれることは何でもやりました。
ありがたいことに、これらの試みにはドクターも一緒に動いてくれました。
一介の作業療法士が騒いだところで普通は相手にされませんが、当時の自分は、ドクターが「この人が言うなら動こう」と思ってくれるくらいには、必死に勉強していたのだと思います。
作業科学との出会い。答えは出会った本の中にあった
2005年頃、20代後半だった私は大きな転機を迎えました。沖縄への移住です。東京の病院で朝から晩まで臨床に明け暮れていましたが、「このまま働き続けて、自分の子供に寂しい思いをさせていいのか」という迷いが生まれました。私自身の両親も仕事中心で、子供時代に寂しい思いをした記憶があったからです。
「子供とはしっかり向き合いたい」そう決意し、大好きな臨床現場でしたが、環境を変える決断をしました。
沖縄で暮らし始めて夫と出会い、結婚。しばらくは沖縄の病院で働いていましたが、2008年に長男を出産するタイミングで臨床を離れ、琉球リハビリテーション学院の講師として教えるご縁に恵まれました。
自分の臨床経験を学生に教えることで体系的に整理して向き合うことができました。この時の「人に伝える・教える」という経験が、今の学校作業療法の土台になっているとも言えます。
この講師時代に出会った「作業科学」という学問は、私の中でものすごい衝撃でした。人はなぜ何かをするのか。なぜ「作業」が人を人たらしめるのか。
あの病院時代に抱え続けた疑問、「なぜ病院にいると病人になるのか」「その人らしさはどこに行ったのか」に対する答えが、体系的に書かれていました。
「ここに全部答えが載ってるじゃん」と、しびれる思いでした。
夢中で読みました。家族には「本を手から離して」と言われるほどでした。生まれたばかりの長男の育児と重なっていて、授乳しながら本を読んでいたくらいです。
この時期に自分の中で、臨床で感じた「謎」と作業科学の「理論」がセットになりました。おそらく、私が研修で「分かりやすい」と言われるのは、教科書から入ったのではなく、現場のリアルな疑問から理論にたどり着いた順番で語れるからだと思います。
母親としての怒り「検査を受けないと安全に保育ができない」

学校に作業療法を届けようと決めたもう一つの原点は、母親としての経験でした。
長男が保育園で「息子さん、他の子と少し違います」と言われました。
「検査を受けないと安全に保育ができない」。先生たちの口から出てくる言葉に、心が締めつけられました。冷静ではいられなかった。
私は作業療法士です。発達のことは専門です。
ですが初めての子育てという試行錯誤のまっただ中で、唐突な言葉に混乱し、落ち着いて状況を把握することができませんでした。
「このままではいけない」私は保育園を辞めさせ、息子が進学する予定の地域の小学校へ、大したアポもなく向かいました。
「作業療法士として、学校を変える手伝いをさせてくれないか」そう提案した私に、当時の平良瑞枝校長先生が「それすごく面白い。やってみなさい」と言ってくれたのです。そこから、学校現場での作業療法がボランティアとして始まりました。
当初は自分の息子を守りたい一心でした。しかし、現場に入り込むうちに、「自分の息子だけ」を見るのではなく、「子どもたちが過ごす学校という環境全体」を変えることが、結果として息子を含めたすべての子どもたちのためになると感じるようになり、活動を地域全体へと広げていったのです。
7年間のボランティア

2009年、琉球リハビリテーション学院で講師をしながら、ボランティアとして金武町の嘉芸小学校に足を踏み入れました。二人目の子どもを抱っこしながら、学校に行ったこともあります。
当時、学校に作業療法士が入るなど意味がわからないという時代です。先生たちには「自分の教育に不足があるから外部の専門家が来たのではないか」という不安がありました。教室に入ることも、授業を見ることも拒否される日々。
怖いと思われたら入れない。だから、安心してもらうことに全力を注ぎました。使う言葉を先生に合わせ、評価しに来たのではないと態度で示し続ける。
この時、嘉芸小学校の平良瑞枝校長先生が、私の最大の理解者であり、大きな支えでした。平良先生が教えてくれたのは、
「先生が元気にこの教育ができれば、障害の有無に関わらず、すべての子どもたちはその子らしく元気に育っていく」
ということ。この言葉が、私の学校作業療法のすべての軸になっています。
同じ時期に、来日したアン・フィッシャー先生の研修を受けました。日本では発達障害の子どもに知能検査をかけて、その数値で判断するのが当たり前でした。フィッシャー先生はこう問いかけました。
『検査で分かった数字で、この子の人生の何を変えられるのか。でも「やりたいこと」に焦点を当てた分析なら、何が問題で何ができるかが分かった時点で、今、人生を変えられる。』
目の前が開けた思いでした。平良先生の言葉とフィッシャー先生の言葉。この二つが、私の原点です。
養成校での授業は90分枠でしたが、いつも60分で切り上げて、残りの30分は自分のボランティアの現場報告に充てていました。「この間の男の子、こうなりました。次はこういう作戦を練っています」と。
学生たちは、「学校作業療法」という言葉すら存在しない時代に、私の経過報告を聞かされていたわけです。
やがて那覇市の校長先生が、私たちの活動をこう表現してくれました。
「僕たちが届けたいと思ってる教育を言葉にして叶えてくれてる」
「届けたい教育」という言葉が生まれた瞬間でした。ボランティア開始から2年目の終わり頃のことです。「すべき教育」でも「最高の教育」でもなく、「届けたい教育」。──それは、先生がベストだと思うものを子どもの前に置いて、でも最終的に選ぶかどうかは子ども自身に委ねる、という考え方を表す言葉でした。
ボランティアとして訪問した7年間で、21校、106名の子どもたちの支援を行いました。
仕組みにするために。4か月で会社を立ち上げた話

7年間のボランティアは、あまりに効果がありすぎました。
自分の現場だけでなく、他の作業療法士の訪問を見に行くと、効果が全然違う。目の前の子どもだけに注力して、クラス全体にも先生にも何も波及していない現場を見た時に、「これは自分ひとりでやっていてはいけない」と思いました。
ただ、会社を作ること自体にはずっと躊躇がありました。学校作業療法の技術には自信がある。でも、自分が他者とチームを組めるのか。幼少期からのいじめの経験で人間不信が長く続いた自分に、組織なんてつくれるのか。──最後までそこがネックでした。
2015年9月、養成校を退職しました。Facebookに花束の写真と一緒に「やめます」と投稿したら、3日後に沖縄の自治体の方から連絡が来ました。「ちょうどいいね。ちょっと来てもらえますか」と。
行ってみたら、保育所等訪問支援事業の説明をされ、「会社を作りなさい」と言われました。会社設立の書類一式を渡されて、「この通りすれば大丈夫だから」と全面的にバックアップしてくださいました。事業所の申請書類も一式もらって、言われた通りに書くと無事審査も通り、トントン拍子に進みました。
通常は半年以上かかるプロセスを、4か月で駆け抜けました。9月に退職して、翌年1月には事業開始。前の職場からは「準備してたでしょう」と散々言われましたが、本当にやめてからの話なんです。
そして2018年、事業の拡大に伴い現在のYUIMAWARU株式会社に法人変更しました。善意だけでなく、組織としての力が必要だと感じたからです。
現在の活動

YUIMAWARU株式会社の代表として、沖縄・関西・湘南の3拠点を統括しています。
学校訪問支援、通所療育(児童発達支援・放課後等デイサービス)、研修・講演事業を展開。累計200名を超える子どもたちの支援に関わり、11の市町村の学校に訪問実績があります。学校に定期的に作業療法士が訪問し続けるモデルは、全国でもゆいまわるだけです。
この活動は、一人の力で成り立っているものではありません。
技術には自信がある。でも自分が組織をつくれるのか。その不安は最後まで消えませんでした。今、こうしてチームとしてまとまっている姿を見ると、正直、感動します。いい人が集まってくれたな、と。
創業当初は、私が面談に同行してその場で学んでもらうスタイルでした。今では半年間の体系的な研修制度とバディ制度を整え、チームとして技術を伝えていける組織に育っています。
「仲間さんがすごいんですよ」と言われるとすごく居心地が悪い。でも
「ゆいまわるの作業療法ってすごいんですよ」と言われると、「そうなんですよ」と胸を張れる。
不思議ですよね。
でも、だからこそ、この技術を私以外の人が届けられるようにすることが、自分のミッションだと思っています。

ゆいまわるの仲間たち
沖縄・関西・湘南、それぞれの土地で、それぞれのやり方で学校作業療法を届けている仲間たちがいます。
同じゆいまわるの芯を持ちながら、自分たちのスキルやノウハウを、地域の文化や学校の空気に合わせてその地域なりの『ゆいまわる』を展開しています。その姿を見るのが、いまの私にとって一番うれしいことかもしれません。
沖縄チーム

関西チーム

湘南チーム

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どのサービスが合っているか、
わからなくても大丈夫です。
お子さんのこと、学校のこと、地域の支援体制のこと。まずはお気軽にご相談ください。
私を動かしてきた人たち、支えてくれた人たち
よく「どうしてそこまで動けるんですか」と聞かれます。答えはいつも、周りの人たちです。この活動が続いてきたのは、節目ごとに助けてくれた人たち、言葉をくれた人たちがいたからです。
病院時代、「何してるのあんた」と本気で叱ってくれた患者さん。学校という未知の世界の文化やルールを一から教えてくれた平良校長先生。「僕たちが届けたいと思ってる教育を叶えてくれてる」と、私の活動に名前をくれた那覇市の校長先生。「検査の数字でこの子の人生の何を変えられるのか」と問いかけてくれたフィッシャー先生。「ちょうどいいね、法人を作りなさい」と書類一式を渡してくれた自治体の方々。
言った本人は「そんなこと言ったっけ?」くらいの温度感でも、私の中ではとんでもない衝撃です。自分の中に正解があると思えない人間だからこそ、人の言葉にものすごく影響を受ける。そのインパクトが、いつも次の行動につながってきました。
「仲間さんは運がいいだけだよ」と言われたこともあります。そばにいた別の作業療法士が、「じゃあ君は真夜中に子どもを抱っこして現場に行こうなんて思うのか」と返してくれました。運を引き寄せたのも実力のうちだ、と。
私自身は苦労の自覚がないので何とも言えませんが、行動だけはしてきたと思います。そしてその行動を見て、手を差し伸べてくれた人たちがいた。それは確かです。
そして家族の支えも大きいのです。職種が違う夫と、家に帰ったらなんでもない会話をして、「手伝って」と言えば何でもやってくれる。夕飯もつくってくれて助かります。
何より助けてくれるのは、夫のご両親です。疲れた顔をしているだけで、気づいたら階段に夕飯が置いてある。「多く作っちゃったから」とだけ言って、「作ってあげた」とは絶対に言わない。洗濯物が畳まれている。部屋が片づいている。まるで「靴屋の小人」です。存在を主張しないけれど、ものすごく支えてくれています。「何が一番の成功ですか」と聞かれたら、今の夫と結婚したことが一番の成功だと本気で思っています。
三児の母。長男は自ら進みたい道を選び、勉強に向き合っています。かつて保育園で「他の子と違う」と言われた子が、自分の多動な特性を「ジェットエンジンみたいでかっこいいじゃん」と友達に話しながら、誰に言われるでもなく何時間も机に向かっている。
あの子の姿が、私にとっての学校作業療法の答えのひとつです。